◆声優になるための苦労と努力
この道を志したのは少女時代、というよりはほんの子供の頃である。大好きなディズニーアニメを見ながら育ち、『科学忍者隊ガッチャマン』『宇宙戦艦ヤマト』といった第一次アニメブーム到来で完全にその魅力の虜になったという富沢さん、
「ガッチャマンになりたい。ヤマトに乗りたい。森雪になりたい…本気でそう考えていたんです」
どうしたらなれるんだろう、一体どうしたら…と、子供なりに一生懸命考えた末、出た結論は“声優さんになる”ことだった。
「声を吹き込むことによって、そのキャラクターになれる。声を吹き込むことによって、生命を与えることができる…!」
そう気づいた時、少女トミザワはわずか9歳にして“声優”という職業をハッキリ意識するのである。そして(私の天職はコレしかない!)なぜか分からないがそう確信した。それにしても9歳といえばまだ小学4年生。「声を吹き込むことによってキャラクターに生命を与えられる」なんて、普通のコドモじゃちょっと思いつかない。たいていの子供ってものはオヤに泣きついて、ピコピコ光る返信グッズとかプラモなんかを買ってもらったり、友達とゴッコ遊びをしているうちに満足してしまうだろうに この年齢にして物事の本質を見抜いていまうなんて、末恐ろしいコドモである。
しかしいくら堅く揺るぎない信念があったとはいえ、なにしろまだ小学生。
「当時、まだ声優という職業はクローズアップされていなかったし、その頃は群馬に住んでいたので(東京にある)『劇団ひまわり』とか『こまどり』とかに入って勉強するわけにもいかなかったのね」
富沢さんは小学校時代から学業優秀、スポーツ万能だった。そんな娘はオヤにとってはさぞや自慢の種。それが「声優」なんて不安定な仕事に憧れていると知ったらコレが冷静でいられようか、富沢家のご両親は娘の決心には大反対の猛反対。しかし富沢さんの決心は揺るがない。この頃から思い込んだらイノチガケ、だったらしい。
「親を説得するためなら何でもやりました」
とにかく高校まではやるべきことはきちんとやろう、その代わり高校を卒業したら絶対東京に行こう そう心に言い聞かせ、何と8年越しの人生設計を立てたのだ。
小学校で水泳、中学でバレー、そしてスポーツの名門、高崎商業高校ではバスケットに明け暮れた。学業成績も優秀なまま。周囲から見て、富沢さんが声優を目指しているなんて誰が想像しただろうか。
しかし、劇団に通えないならせめて…ということで、高校に入ってからは自主的にNHKの通信教育を始めた。これは声優やバレーター養成講座の類いで、教材とテキストを購入し、朗読したテープを送ると講師がチェックしてくれて、添削結果が返送されてくるというものだ。富沢さんは勉強やスポーツ同様、ここでも優秀な成績を修めた。これは両親に対する意思表示になり、富沢さん自身の自信にもつながっていった。
そしていよいよ進路決定の季節。8年間温めてきた思いをやっと実行に移せる…富沢さんの心は日々膨らんでいった。
ところが、浮き立つ気持ちを大きく揺り動かす“事件”が起こる。バスケ部の主要戦力だった富沢さんに、大学推薦と某大企業の推薦、さらには実業団からのオファーがあったのだ。特に実業団の勧誘は熱心で、監督自ら富沢さんに直談判しにきてしまう。その監督と校長と両親と富沢さんは長時間話し合った。校長はスポーツ推薦の実績が欲しい、両親はシメシメこれで安泰…で富沢さんの態勢は断然不利。そして誰もが羨む栄えある進路、少女の固い決意もグラグラッと傾きかけたかに思えたその時、監督のダメ押しの一言が…。
「あなたの声は人一倍大きくて、明るい。絶対あなたのようなムードメーカーが必要なんです、マネージャーとして…」(ヘっ、まんーじゃー?)…一同、目が点。
「“ぜひ、ウチに”って言うから、当然プレイヤーになるものとばかり 即、お断り申し上げました(大笑い)」
いやはや、とんだドンデン返し。しかしこの時のクドキ文句にご注目あれ。富沢さんはこの時から“声”の才能の片鱗を現していたのである。監督さんもナカナカお目(耳)が高い。
何はともあれ、どうして幼い頃からの夢をあきらめ切れない富沢さんは、傍らから見ればヨダレもんの大学も会社も蹴り、ひたすらひたすらご両親を説得した。そしてついに『25歳までに芽が出なかったら戻ってくる』という約束を言い交わし、上京するに至ったのである。

(本文より抜粋)

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